こんにちは。
ニームツリー・マガジン編集長の羽田朋美です。
一見、後退したかのように見えたり、ネガティブな要素しかないように感じたりしたことが、実は人生の転機を後押ししてくれたということはありませんか。
私自身が、然り。
これまでの人生を振り返ると、私にとって停滞期や困難なときというのは、そのほとんどが、結果的に変化の前触れになっています。
2010年、長男を出産したときもまさにそうでした。
その頃、私はローティーン誌の編集長をしていて、早く編集部に戻ることばかりを考えていました。運よく保育ママさんに空きが出て、2011年1月に、産後2ヵ月で復帰。しかし、復帰後間もなく、4月からの広告営業の部署への異動を言い渡されます。自分には編集の仕事しかないと思っていたので、退職することも考えましたが、「また編集に戻れる日がきっと来るから」という異動先の部署の上司の言葉もあって、応じました。
その3月に、東日本大震災が起こります。
2011年3月11日14時46分-。
ちょうど、次期編集長に引き継ぎをしていたときでした。
その後の、余震と原発事故による子育て不安。私自身の価値観の変化。そして、多くのママたちのライフスタイルそのものを見直そうという動き。大きく社会が変わろうとしているさなか、私はママ雑誌を立ち上げたいと思うようになりました。
そこからは、トントン拍子でした。
ママ雑誌の創刊に理解を示してくれる局長が現れ、会議で企画書を出すと役員が興味を示し、一気に「新しい女性誌を我が社に!」というムードに。
雑誌のミューズはこの方以外には考えられないと思っていた一色紗英さんにオファーしたところ、こちらも異例のスピードで決定。繋いでいただいたマネージャーさんから、「本人が雑誌のコンセプトに共感し、“ぜひやりたい”と言っている」と聞かされたときには震えました。
もし、あのとき異動はなく、ローティーン誌の編集部に留まっていたなら……。
今、こうしてNeem Treeとして活動していることはなかったでしょう。
異動を命じられた当時の私にとって、創刊当初から9年間、ずっと一筋でやってきたローティーン誌への愛着はひとしお。おこがましくも、自分以外にこの雑誌の編集長は務まるまいとさえ思っていました。そんな私にとって、生活の大部分を捧げてきた愛すべき『ラブベリー』との決別は、まさにこの世の終わり。
そんな気持ちをどう落ち着かせていったのか、落ち着くまでにどれくらいかかったのか……もはや思い出せないけれど、今は、あのとき、あのタイミングで、あのような展開になったことに、感謝しかありません。そして、すぐに次の目標を定め、行動した当時の自分にも、「よくやった!」と言ってやりたい気持ちです。
「困難なときこそ、発展の芽がある」。
これは、さらに遡ること10年以上前に、母が10万人にひとりの病を患い、手術をすることになったときの父の言葉です。
医師が嫌がるようなとても難しい手術で、母は手術前に「私のお墓の前で泣かないでください」という歌い出しの『千の風になって』という曲を病院の屋上で大熱唱したり(公共の場で迷惑な上に歌詞的にも他の患者さんに失礼)、家族にお別れっぽい内容の手紙を書いたり(手術直前に渡してきて家族を大いに不安にさせた)するなど、縁起でもないことをしまくっていましたが、幸いにも手術は成功。今も元気にしています。
ある日突然、ネットで調べてもほとんど症例が出てこないような病気に母が罹り、不安で押しつぶされそうな日々でしたが、当時の家族の結束力はその後にも大きく活かされ、揺るぎないものになったと感じています。あの経験を通して学んだこと、得たことも、ひとつやふたつではありません。
以来、私は父の言葉を、心の片隅に置くようになりました。
そして、「停滞期こそ、動こう」という思いを強くしたのでした。
そうしてできたのが、このニームツリー・マガジンです。
昨年の秋、Neem Treeの屋台骨ともいえる大きな仕事がなくなりました。
もしも今尚あの仕事が続いていたなら、忙しさにかまけて、私は動いていなかったでしょう。
長らくやってきた仕事が一区切りしたタイミングで、新しいものを生み出す。
奇しくも、9年前と同じ流れです。
停滞期や困難なときというのは気持ちも塞ぎがちになるので、なかなか新しいことをスタートしようとか、視点を転換する気になれないもの。
しかし、それが転機の兆しだとしたらどうでしょう。
きっかけは思いがけないところにも転がっていて、誰かに気づいてもらえるのを待っているように感じます。